芸術家の愛した里山に憩う
1日1組限定、アトリエの宿
田圃の間をゆく一本道をひたすら走る。何もないと思われたところにその宿は存在する。日本の里山を愛し、石に魅せられたオランダ人アーティストが自ら作り上げたアトリエ。25年間の足跡が庭に、そして建物に息づいたそこは、1日1組だけに許された隠れ家である。
創作活動にふさわしい場所を求めて、辺境に移り住む芸術家は少なくない。自然の只中で自らと対峙することで内なる力が目覚めるからだろう。そして、その住まいは洋の東西を問わず主の美学に貫かれている。「アトリエオーハウス」はまさに一人のアーティストの作品であり、彼が何を考え、何に魅入られたのかが体感できる宿だ。オランダに生まれ、王立園芸大学で造園や景観工学を学んだケース・オーウェンスは日本の枯山水に衝撃を受け、来日。京都を始め、日本各地の庭園を見て回るうちに愛媛県宇和島の造園会社の社長と知り合った。社長の元で職人たちとともに働きながら、日本庭園の基礎を学ぶうちに、やがて石の彫刻への情熱が湧き上がっていった。自らが彫った石で庭を整えるという独自のスタイルを見出したオーウェンスは、故郷やインドネシアで造園事業を展開。しかし、次第に創作意欲が抑えきれなくなり、事業を手放して再び来日。創作拠点にふさわしい場所を求めて辿り着いたのが、愛媛県西部の宇和町だった。森と水と田圃に囲まれた里山に、日本の芸術世界の原点を見たオーウェンスは自らの手でアトリエを作り始めた。石を組み、石を彫り、少しずつ手を加えて作られたアトリエは、25年の時を経て一日一組だけを迎える宿として生まれ変わり、芸術家の魂を今に伝えている。
MAIN ROOM
アーティストの哲学が宿る、美しきディテール。
ここは邸宅美術館。
木々生い茂る道の先に忽然と現れる重厚な石壁。迎え出たスタッフに誘われて進むと石壁と白壁が対角線を描くように組み合わされた一軒家に着く。周囲には石の彫刻がそこかしこに置かれている。目の前に広がる景色そのものが一つのアートなのだ。鉄の扉を開けて入るとそこはゆったりとしたリビングルーム。玄関という概念のないヨーロッパスタイルだ。室内には絵画や陶芸などのオーウェンスの作品が置かれ、アーティストがこの地で得たインスピレーションの世界を感じることができる。それは彼が見出した日本独特の細かく繊細な「指先の世界」で、美しい色彩と静かな広がりが空間に不思議な安らぎをもたらしている。大きく取られた窓からの眺めも、あたかも一幅の絵のように見る者の心に語りかけてくる。全てはオーウェンスが考え、作り出した作品なのだ。アートをテーマとしたホテルは幾つかあるが、この宿が他と異なるのは、アーティストの自宅を別荘のように思いのままに使いこなすことができる点だ。必要な時にスタッフのサポートを受ける以外、好きなタイミングで好きに過ごせる。ベッドに横たわり天窓から空を眺めたり、屋根裏のライブラリーでオーウェンスが残した愛読書に目を通したり、木立の中のハンモックで微睡むのもいい。聞こえてくるのは、森を渡る風の音、鳥のさえずりのみ。たとえ、芸術の才に恵まれなかったとしても、心揺さぶるものがあるのは五感でわかる。アーティストとの一体感を味わう唯一無二の体験ができる宿なのだ。
このアトリエのメインであるリビングダイニング。ゆったりとしたカッシーナの家具と、オーウェンスの絵画やオブジェが絶妙のバランスで溶け合い、一種独特な世界観を醸し出している。思い切ってドアも開け放せば、木立の先に田圃や周囲の景色が見渡せる。建物の内と外の境界線が曖昧になり、いつしか自然と無理なく繋がっているのを感じる。
到着するとウェルカムドリンクのお茶を点ててもらう。一服のお茶が旅の疲れを取り除いてくれる。借景の竹林も美しい、静かな和のもてなし。
Cuisine
愛媛の厳選食材が活かされる
注目すべきローカルガストロノミー
ディナーのためだけにシェフが出張し、心づくしの料理を提供する。一期一会だからこそ、作り手は全ての料理に思いを込め、それが食べ手の記憶に久しく残る。そんな体験こそが人生を豊かにしてくれるのだ。季節の良い時は外での食事も試したい。炎を使った料理は最もプリミティブな悦び。眼前で繰り広げられる料理風景もまたご馳走である。
日本の美点の一つは、どの土地にも優れた食材があること。豊かな四季とその風土が育んだ食材は、その土地ならではの食文化の基礎である。瀬戸内愛媛も温暖な気候の恩恵を受け、美食の地としてのポテンシャルは極めて高い。しかし、その食材の魅力をどのように引き出すかは料理人の腕にかかっている。アトリエオーハウスは、食の愉しみにも重きを置き、ディナー、朝食ともにシェフが丹誠込めた美味を提供する。ディナーはフランス料理をベースとしているが、地元産の食材の繊細な味わいを最大に生かすべくバターなど主張の強い材料は使わない。瀬戸内の魚介、野菜をふんだんに用い、テクスチャーの違いや微妙な温度変化で食材の奥深くに潜む旨味を際立たせ、和の感性を取り入れた皿に仕立てる。地元伝統の器を使いこなしたプレゼンテーションも眼福だ。希望すればフランス料理以外に、例えば松山から鮨職人を招いての鮨のコースも可能。その晩をどのように過ごしたいか、あらかじめ相談すれば思いもかけない提案をしてくれるのも、地元を知り尽くした宿ならではのホスピタリティだ。翌朝は一転して和食だが、愛媛名物のじゃこ天を始め、地元の野菜をさまざまに調理した体に優しい食事である。愛媛の米どころの誉れ高い宇和町で取れた米の炊きたてご飯もすこぶる滋味深く、朝の体を整えてくれる。
フランス料理の技法と地元愛媛の食材の融合。言うは易しだが、完成させるのは難しい。愛媛の食材はとりわけ繊細なのだ。来島海峡の黒鮑は蒸し焼きにして鮑本来の味を主役にし、地元産のなすを使った優しいソースを添え、黒の板皿に盛り付ける。輿居島のオニオコゼはブレゼして身をふっくらとさせ、蓮根のすり流しソースと合わせて全体を白く仕立てたところにイカ墨を添え、淡墨を流したような器と合わせる。どの料理も器の景色との呼応がまた素晴らしい。欧米でも和を思わせる器を使うことが増えているが、見た目の印象も理由づけも完璧にするのはなかなか容易なことではない。やはりシェフの感性と経験がものを言うのだ。リクエストすれば、カウンターキッチンでの料理も可能。是非とも盛り付けの奥義を見届けたいものである。
ART
芸術家の心の足跡を辿る
枯山水に始まり、石の持つ魅力の虜となったオーウェンスが宇和町を選んだのは、豊かな自然ともう一つ、彼の創作対象である石があったからだ。石を置く空間は、その土地の石でなければバランスが崩れるという理念のもと、空間造形を行うのが彼のスタイル。敷地の各所に置かれた作品は、作家が自然の一部である石との対話を通して作られた、言うなれば自然と芸術家の共作である。
石という古来人間と密接な関係にある存在をあらためて意識し、そして自由に受け止めてほしいからと、オーウェンスは作品にタイトルを与えなかった。一つ一つにその形の意味と場所の意味があり、それは見る人によって違ったものであって然るべきと考えていたからだ。
宿泊棟の他にもう一つ、門のすぐそばに小さなギャラリーがあり、作家が残した器やオブジェなどの陶芸作品、さらには実際に使っていた道具も展示されている。型を使わず手びねりで成形する愛媛伝統の白磁の砥部焼にもまた創作意欲を掻き立てられたのだろう。希望すればギャラリーで陶芸体験もできるので、アーティストの体感したであろう創作の高揚感を一部でも味わってみて欲しい。
作品見たさに泊まるゲストも少なくないと言うだけあって、敷地の隅々に至るまで作家の痕跡が感じられる。圧倒的な力を放つ石の彫刻や絵画に比べ、陶芸作品はどこか穏やか。それは砥部焼独特の風情を取り込んでいるゆえだろう。ギャラリーでは料理に使われている砥部焼の器も展示されている。